vol.2 微生物の働き

森の地肌に生きる生きものたちと、わかちあう歓び

森に分け入り、落ち葉の下の土の匂いを嗅いだことがあるでしょうか。見知らぬ森でひざまずくのは、ちょっとした緊張感を伴いますが、いっそ鹿や猪になった気分で地面に鼻を突っこめば、そこに広がるのは、なんとも懐かしい甘い匂い。
鹿や猪だけじゃなく、森の生きものすべてが味わう、土という幸福。吸い込むほど満ち足りて、いつしか自分が、森に溶けてなくなっていくかのような、人間の生理を超えた感覚です。
蒸したお米を酵母の働きでアルコールに変えるのは化学であり、醪から酒を搾り、あれこれ緻密な計算で熟成させるのは物理です。でもそれだけで、おいしい酒ができるとは言い難いのです。
酒づくりには、森の地肌に生きる無数の生きものたちと分かちあえる、歓びがあります。地中のミミズやモグラとだって交感できるでしょう。自然と昵懇(じっこん)になる歓びです。
それを哲学と呼ぶ人がいます。信心だよ、と言っていただいてもかまいません。 酒づくりは、水と空気、火と土という、世界を構成する4つの原理から成りたっています。酒は人間の知恵の産物ですが、自然の摂理の賜物です。とりわけ、地球上のあらゆる陸上生物の母体である、土の恵みを存分に授かりながら、その土地ならではの個性を酒に託します。

一つかみの表土には数十億の顕微鏡サイズの虫が生息できる

一つかみの表土には数十億の顕微鏡サイズの虫が生息できる。500グラムの肥沃な泥の中にいるそれらの虫の数は、世界の人工をしのぐ
(土と文明史 デイビッド・モントゴメリー著・片岡夏実訳より)

地球上の生命は土を必要とし、泥と生きものが共生して土壌をつくります。土の表土層は、生態系の背骨ともいわれ、肥沃な表土層には無数の微生物(細菌や真菌、放線菌や藻類など)がいて、植物が有機物や無機質な土壌から養分を吸収するのを助けています。
土中の食物連鎖で、頂点に君臨する生きものはミミズやモグラ、ムカデたちです。微生物は落ち葉や動物の死骸を餌にして、有機物を無機物へと分解し、土と混ぜ合わせるという見事な活躍ぶりですが、同時に原生動物や極小の昆虫の餌になります。その昆虫もまた、さらに大きなミミズたちのご馳走となります。
余談ですが『種の起源』を著したチャールズ・ダーウィンは最晩年の研究で、世界全体の土壌の大半は、ミミズが耕したという結論を導きだし、世界を驚かせました。
肥沃な土壌とは、土中の食物連鎖が正常に機能している証です。この生態系が崩れると微生物が減少し、植物の成長に必要な物質の循環が途絶えてしまいます。

生態系の中にある農業を。

菊池勝義自然農場の農業も生態系の中にあります。ここで栽培されるこしひかりの成長を支えているには、まぎれもなく土中の微生物です。
微生物は大好物の有機物をたくさん食べ、稲が食べやすい無機物(窒素、リン、カリウム)に分解します。それだけではありません。成長に必要な空気中の窒素も賄い、土壌物理性の改善を図り、成長に必要な成長ホルモンや抗生物質などの物質も供給します。おまけに、いもち病など稲特有の病気も抑制してくれるのです。

水が濁るのは微生物が関与しているから。

自然栽培は雑草との闘いです。稲が田んぼの養分で成長しようとしているのに、雑草にもっていかれるては困るということで、慣行農法なら除草剤を撒いて済ませたり、収穫量を減らさないようにと肥料を入れたりもしますが、自然栽培は違います。すべて手取り。草のタネを田んぼに残さないよう、這いつくばって、むしり取ります。もちろん重労働です。
闘いは今もつづいていますが、やがて雑草の生えない田んぼになると信じています。除草したあとに水が濁れば、草が生えにくくなるらしいのです。濁り水で草の光合成が進まず、成長がにぶるということなのですが、水が濁るのは微生物が関与しているからではないかということです。

観察はつづき、挑戦を繰り返し、失敗を糧に進む。

慣行農法ではタネや苗を買うことは一般的ですが、ここでは自家採種です。微生物がうごめく農場の土を知ったタネは、歳月とともに力強さを増します。この数年でたくましくなったこしひかりは、タネの力が発揮され始めたからに違いありません。
物質の循環に目を配らず、土地や労働の生産性だけを求めるあまり、化学肥料や農薬を与えつづけると、微生物はどんどん減っていきます。
自然界の法則や生態系のメカニズムは、とても複雑です。興味本位で自然栽培に取り組んでも、夢の半ばで退散を余儀なくされます。知識よりも経験がものを言い、辛抱と我慢を強いられるのが自然栽培です。でも諦めないのは、自然農法がこれからの農業を支えていくと思うからです。その日まで、農場の観察はつづき、挑戦を繰り返し、失敗を糧に進んでいきます。

 

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